国際卓越大学に向けた京大の改革についての私見
京大の目指す改革の背骨は「研究時間の増大」である。会議、事務、雑用がデパートメント制の導入を伴った改革により激減し、研究者が今の何倍も研究に打ち込めるようになれば研究力は自然と向上する。
研究者の自由な発想による研究を促進するために、小講座制(教授・准教授・助教からなる研究室を研究推進の単位とする制度)の廃止が検討されている。小講座制が廃止されたら、研究グループの単位が小さくなり(各教員がグループのリーダーになる)、より自由な研究活動が促進される。研究室間の垣根が消え、研究者間の交流が現在よりも促進される効果も期待される。今は、研究者が何かしようとする際、研究室内(小講座内)での調整が必要な場面がある。小さな障壁の場合がほとんどではあるが、研究とは関係のない、ただ社会的であったり実務的であったり、大して面白くもないコミュニケーションが案外多く発生する。面倒なことが小講座制の廃止によりなくなる。
小講座制を廃止したら、人事で広い学問領域から分野を選んで補強できるという意見もあり、正しい。化研などでは、私のような研究室主宰者が研究室の運営責任を担っており、人事の際、研究室の発展を考慮せざるを得ず、高所からの自由な人事が難しい。一方、各研究者の独立性が高まれば、局所的な責任や利害関係が消滅し、人事の柔軟性は上がる。すでに、多くの大学でこうしたシステムになっている。
しかし、「小講座制廃止=若手研究力向上」ではない。京大の改革により、そしてデパートメント制により、若手の自主性、主体性の向上は期待できる。しかし、注意が必要。私たちの研究室を含めて多くの研究室で既に若手の自主性や主体性は尊重されており、こうした状況の中では、「小講座制廃止=若手研究力向上」とは決してならない。あくまで、業務の削減と支援の充実による研究時間の増大が鍵である。「小講座制廃止=若手研究力向上」の発想があるように見えるが、これは私にはかなり意外だった。一部の権威主義的な研究室において弊害・実害があり、そうした状況をみて出て来た発想ではないか。
今回の組織改革計画で重要なのは、部局間の壁を取り払い、研究リソースの強化と共有の促進により、研究者が研究に打ち込めるようにする点だ。大学執行部が提案しているデパートメント制は、(1)若手の自由・自立と、(2)正当な研究者評価を実現することにあると理解している。(1)は良い。一方、(2)は研究分野の近い研究者でデパートメントを形成することにより正当な評価を実現する計画だが、研究者の評価にはそもそも根本的な疑問を持つ。
評価をすれば、研究力が上がるというのは短絡的であり間違っている。評価することにより研究が委縮し、研究者が思った方向に研究を進めにくくなることがある。そうしたことが続けば、研究の裾野はなくなる。どこかしらの〇〇タワーや〇〇〇ツリーのようになる。研究や学問は文化であり、突出したものだけでは成り立たない。評価には端をそぎ落とすという負の側面があることを見逃してはいけない。野球選手を育てる時、評価をしたら育つと考える人はいない。むしろ少年野球を活発にしようとする。
研究者は、説明責任を果たしていれば良い、つまり、国民の皆様にどのような研究をしているかを納得してもらえる形で、しっかりと説明できる範囲ならば、その範囲であるならば、どんな研究をしていても許されるくらいが丁度良い。そうした理解を大学内外、そして国民の皆様にも広げることにより、「自由な学風」を担保し、研究を展開したら良い。昔はこんな雰囲気だったのではないかと想像する。天才もいたが、個性的な研究者、変な研究者や、できの悪い研究者がそれぞれ沢山いた。でも立派であった。
評価ではなく、関連分野研究者間のアドバイスや協力・相互扶助による研究力向上を図る学内文化を形成すべきである。テニュア教員(無期雇用)になったら、大学としては助言するだけで良いし、それ以上のことはできない。研究者は奴隷ではないのだから。もちろん学内の競争的研究支援システムや大学運営方針に沿った給与体系などは重要である。そうした大学が組織として成功するための戦略と、研究者の評価とをリンクさせない文化が必要である。そのためには、異分野に対する敬意と寛容の精神の育成が必要である。理学部、特に生物系では何の役に立つのか分からない、あるいは役に立たない研究もあるが、「オモロイ」かどうかという価値が今は存在している。その価値の重要性は計り知れない。これが失われたなら、何が科学なのか分からなくなる。海外の研究者と話しても、サイエンスとは何かという共通の認識があり、そこには「オモロイ」という価値観がある。こうした価値がなくなれば、京大は個性を失い、いらない大学になる。いくらノーベル賞受賞者を輩出しても尊敬される大学ではなくなると思う。将来的にはノーベル賞を輩出しない大学になる可能性も高い。とても怖い想像だ。京大は「自由の学風」をどのように守るかを、国際卓越大学の申請の際も粘り強く主張すべきである。
京大がなくそうとしている小講座制にも良いところもある。例えば、研究者間の調整を研究室の主宰者が責任をもって実施している点があげられる。役割分担である。デパートメントは、研究者個人が単位となり、研究者間の利害調整は、デパートメントのリーダーが行う。デパートメントの規模が30~70人の研究者で、デパートメントのリーダーが調整役とのことなので、その重責は計り知れない。結局は、階層的な小委員会などが必要となり、研究者間の利害調整の方法が今と大して変わらない。ならば、デパートメント制(=若手の独立)自体、研究時間の増大には全く寄与しない点を認識する必要がある。今は、研究室主宰者が面倒なことを請け負って、若手の負担を減らしているという現実を、若手は必ずしも正確に理解していない。下手な若手独立推進を実施すると、シニア研究者からの反逆・反撃があり得、そうなると、若手としても困ったなという状況になる。
現行の学部・研究科教員による内部生の「囲い込み(と一部で言われているもの)」は、大学院に進む学生の選択肢を狭めている。このシステムは、早期に専門性を身につけるという点で推進されてきた。しかし、欧米にはこうしたシステムはない。学部ではまずは基礎を学ぶべき。現在の学部と院の連結システムは必ず改善しなくてはいけない。学生が自由に研究室を選べるようにするのだ。そのためには、研究科間(学位プログラム間)の学生の取り合いも止める。農学でも理学でも薬学でも、院を選ぶ時は今よりももっともっと自由に選べるようにすべきである。
部局間の壁を取り除き、効率化を図り、事務、支援職員、技術職員を補強することにより、研究者の研究時間を増大させると良い。例えば、各部局に散在した事務部の統合があげられる。どうしても並行して進めなくてはいけないことが、部局やデパートメントレベルでの自治、裁量、責務を整理して削減することだ。重要なのは、新たに作られるデパートメントでも自治、裁量、責務を今の部局や専攻に比して削減しないと意味がない。考えると自治権とか裁量というものは魅力的であり、それがないということは、かなりつまらないことである。自治権がなければ、家の主ではなくなり自由度が減るからだ。自由ほど楽しいことはない。しかし、そこは研究に専念する方向に研究者はマインドを変えていかなくてはいけない。梶を切るのだ。私はフランスで13年間研究したが、当時京大におけるような形で部局や大学の自治に関わることは要請されなかった。その結果、研究に専念でき大変貴重な時間を与えてもらったと感謝している。研究時間を増大するという目標を達成するだけで、京大の研究力は自然と上がる。
国際卓越大学となるための改革提案は、こうした諸事情を考慮して熟考されたものだが、しかし、単なる見かけの骨抜き改変に終わると、苦労しても何も得られないし、文科省も含めて誰も京大がそんなことをすることは望んでいない。そして、骨抜き改革なら京大は消滅するかも知れない。研究者は得てして考えすぎなところがあるが、京大が消滅すれば日本から学問が消滅するかもしれない。
京大は霊長類研究所を守れなかった。私は霊長類学については何も知らないが、霊長類研究所がなくなった2022年に日本から大きな文化が突如として失われた。
2025年2月8日
緒方博之